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風俗営業取締り/永井良和(2002)

第一章 近代の風俗警察-隔離政策

1 「囲い込み」という方法torisimari

(略)

遊廓の「かたち」

(中略)

このような仕組みをつくりあげることで、為政者には大きなメリットがあった。売買春を一ヵ所に集めれば、取締に必要なコストを小さくできるからである。この意図のもとに、娼婦を一地域に集中させることを「集娼」という。ぎゃくに、遊廓のような地域を認めなければ、娼婦は街じゅうに散らばって商売をすることになる。このような状態を「散娼」と呼ぶ。「散娼」方式をとると、娼婦の居所が把握できず、取締の手間がかかりコストの面では節約にならない。しかしながら、人身売買や売買春の現場が街のなかにはっきりと姿を顕わすことはないので、都市や国にとっての体面はよい。

欧米の公娼制度

総理府編の『売春対策の現況』(一九八六年版)は、世界各国の売買春にかかわる立法思想を大きく三つに分けて紹介している(3)。

一つは、売買春そのものを犯罪として厳しく罰する立場で「禁圧主義」と呼ばれる。たとえばタイや韓国などは、売買春を禁止する法律的根拠をもっている。もちろん、厳しい「禁圧主義」をとっているからといって、売買春という社会現象が消えてなくなるわけではない。『売春対策の現況』は、どういうタテマエをとっているか、各国政府の立場について紹介しているのである。

二つめに、売買春そのものは処罰しないが、それを商売にする業者や売買春を助長する行為などを罰していこうという立場。日本は、この「廃止主義」に分類されている。

そして三つめに、売買春を一定の範囲で認め、その営業を公的監視のもとに規制する立場、すなわち「規制主義」である。現在でも、オランダやドイツの一部などに残る「飾り窓」地区では一定の条件のもとで売買春が認められているが、それらがこの例となる。

ただし、このうち「廃止主義」と「規制主義」の区別はきわめて曖昧である。「廃止主義」のタテマエをとっていても、警察が取締に消極的であれば実態としては売買春が黙認されることになる。結果的に、手ぬるい「廃止主義」と「規制主義」とは変わるところがない。そして、この二つの立場では、「集娼」方式がとられる可能性がある。

欧米でも、かつては集娼方式をとっていたケースが少なくない。その端緒となったのは一八〇二年のフランスの政策である。軍隊内部の性病豪延を防止するために、フランスでは娼婦の登録と性病の検査とをセットにした仕組み、すなわち公娼制度をつくりあげる。このアイデアは欧州各国で採用されていき、都市には娼館がつくられ娼婦が集められた。フランスが公娼制度を廃止したのは、第二次世界大戦後の一九四六年のことである。イギリスでは一八六〇年代に公娼制度の導入がはかられた。本国では一八八六年に廃止しているが、インドや南アフリカ、シンガポールなどの植民地では公娼制度を離持した。このような事情は資本主義国ではほぼ同様であり、アメリカも一部の都市や植民地で公娼制度を採用した。その詳細については、欧米の歴史研究をレビューした藤目ゆき『性の歴史学』に詳しい(4)。

イギリス本国では、廃娼運動をとおして表向きには売買春のない国づくりがすすめられていく。その結果、娼家が集まっている地区というもの認められなくなった。現実に売買春があったとしても、それは犯罪行為であるとみなされる。

少なくとも、街なかに売春宿が建ち並ぶといった不体裁は避けようという考え方である。なるほど現在のロンドンは、外来者にとって売春婦が街のどこにいるかを知るのがむずかしい都市になっている。じっさいには、電話ボックスに女性を派遣する業者のチラシが散乱し、新聞雑誌にも多くの広告が掲載されている。派遣業態をとる売買春が「地下」に存在するわけで、散娼の状態だ。取締は少々めんどうになっただろうが、国家として売買春を認めていないというポーズだけは貫かれている。

「集娼」と治安

江戸時代に「集娼」方式が採用された事情として、ひとつには、体面を保つべき相手としての「外国」が明瞭には意識されなかったということがあるかもしれない。しかし、より重視されていたのは、治安面での効用であろう。「集娼」方式ならば売買春の管理が容易である。くわえて、犯罪者の追及もたやすい。殺しや盗みをはたらいた者が遊廓に逃げ込むことは、少なくなかった。客を装い身を潜めるのに便利だったからである。取締を行なう側は、遊廓を厳重に監視しておけば、そこで犯罪者を捕捉することが可能だった。

結果的に、取締主体と遊廓とのあいだには連携が成り立つ。売買春の場を一ヵ所に集めることで規制にかかるコストを下げ、犯罪者についての情報提供を受けることもできる。治安維持に役立っだけでなく、遊廓が得た利益の一部を上納させることも可能だ。遊廓jのほうは許可を受けて公然と商売ができるうえ、地域外での営業が禁止されるため競争がエスカレートせずに済む。遊廓のなかにいる業者にとっては、市場の寡占がもたらされるのである。このようなかたちで、遊廓と取締主体とのあいだの「共犯関係」は緊密なものになっていった。そもそも、遊廓が創立されたときの許可条件に、犯罪情報の提供があったと記録されている(5)。遊廓は冥加金を上納し、監視をする役人たちもそれぞれが役得にあずかっていた。

2 新政府の動揺-集娼方式の継承

転機

区画した地域に売買春を囲い込む。この方式は、江戸時代に洗練され定着したものと考えられる。そして、この方式が明治の新政府にも受け継がれていった。
近代以降、廃娼運動などが力を得て、遊廓の廃止を求める声が高まった。もちろん、そのょうな主張にはバリエーションがあって、けっして一様ではない(6)。しかし、現在までの流れを考えれば、人権抑圧的な集娼方式に対する風当たりは強まりこそすれ、弱くなったとは想像しにくい。売買春を禁止する法令の構想や、遊廓の解体を求める動きは常にあった。ところが、現在もソープランドをはじめとする売春業者は生き残っている。このようなサバイバルはいかにして可能だったのか。

集娼方式から散娼方式に転換する可能性が、政府部内になかったわけではない。ここでは、集娼方式が解体される可能性がとりわけ高かった歴史上のポイントをふたつとりあげておく。

最初は、明治細初の時期に西欧にならって新しい警察制度が創設されたころのことである。新政府も、江戸時代に成立した遊廓という売買春のシステムをそのままにしていたのだが、国家としての対応を迫られる事態が「外から」生じた。いま一度は、第二次世界大戦後の民主化が進行した時期である。このときは、民主主義国家への転換のための大規模な改革が進められ、関係する法律や警察制度も一新された。にもかかわらず、集娼方式は維持された。その経緯をふりかえろう。

マリア・ルス号事件

一八七二(明治五)年、「マリア・ルス号事件」が起こる。修理のため横浜に寄港したペルー船に一百名を超える清国人が乗っていた。彼らは鉱山労働につくべき奴隷として買われ、ペルーに送られる途中だった。このうちの一人が逃亡し、イギリス船に助けを求めた。イギリスはこの奴隷の解放を主張し、神奈川県裁判所も解放を支持する。

しかし、ペルー側はこの措置に反発し、国際裁判の過程で日本を糾弾する論を展開した。遊廓を認めている日本政府が人身売買を非難することなどできないではないか、というのである。裁判では日本側の主張が認められたが、人身売買の存在を指摘されたことは政府にとって痛打となった。文明国であることを国際社会にアピールするためには、内に人身売買が残されていることは不都合だ。そこで政府は娼妓解放令を出し、とりあえず人身売買はなくなったというかたちをとりつくろった。

もし、このときに遊廓の徹底的な解体が企図されていれば、集娼政策も終焉を迎えていただろう。しかしながら、実際には自由契約というかたちで女性の「奉公」がそのままつづけられた。事件の翌一八七三(明治六)年には、娼妓渡世規則・貸座敷渡世規則が発布され、貸座敷営業の復活が認められている。以後、「貸座敷」は女性を寄寓させるだけの「場所提供」営業であるとのタテマエがとられた。娼妓と貸座敷は相互に独立の営業主体である、ということだ。

集娼か散娼か

マリア・ルス号事件を受けた「娼妓解放令」という政府の対応は、女性の人権に配慮するべきだとの発想から出たものではない。むしろ、当時の為政者らが、文明国としての体面を最優先していたことを明確に示す事件だった。女性史についての研究でも、そのような評価が通説となっていた。また、事件が直接のきっかけとなって娼妓解放令が出されたという説明も、一般的にはよく見受けられる。

しかしながら、大日方純夫などの研究によって、マリア・ルス号事件による強いインパクトは認めるにせよ、政府部内には事件以前の段階ですでに解放令の原案ともいうべきものがあったことが明らかにされている。このあたりの経緯を、大日方の『日本近代国家の成立と警察』にしたがって要約すると、以下のとおりである(7)。

娼妓をどのように扱うかについて、事件当時の政府の方針は統一されていなかった。娼妓という存在をなくしてしまいたいとする司法省と、人身売買は容認しないが売買春そのものをすぐになくしてしまうことはできないと考える大蔵省とのあいだで、意見のズレがあった。司法省が理想主義的で、大蔵省が現実路線というようにふりわけることもできるが、必ずしもそうとはいえない。司法省とて、売買春を完全になくせるとは考えておらず、現実にある売買春は黙認するしかないという立場である。

どうしてもなくせないという前提に立ったとき、司法省はこれを公認しない方向で扱いたいと思っていたのに対し、大蔵省は公認するかわりに厳しく取り締まるという方針をとった。大日方によれば、マリア・ルス号事件をめぐる議論を経て、この大きなふたつの方向性が折衷され、人身売買を禁ずるものの、売娼の存在は黙認するというかたちに落ち着いていく。

さらに、実際の取締を担当する主体として、地方官や警察といったエージェントが想定されていく。背後には、国家そのものが売買春を直接に扱うことは体面にかかわるという発想があった。警視庁大警視の川路利良はボアソナードの助言などを参考に、国家が取り締まるのではなく、地方や警察が売買春を監視するという流れをつくった。新政府のなかにあった「黙認・散娼プラン」と「公認・集娼プラン」との対立は、最終的には「公認・集娼プラン」に向かうことで決着する。この結末は、国家が体面を保てるという点で、司法省にもあるていど受け容れられるものだったのかもしれない。

性病予防という名分ー集娼方式の存続

マリア・ルス号事件を受けた対応のなかで、集娼方式ははっきりと追認された。一八七〇年代後半には、売買春が一定の空間の内部に限定して認められ、それを各地方の警察が取り締まるという枠組が成立する。さらに一九〇〇(明治三十三)年には「娼妓取締規則」(内務省令第四四号)と「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」(警視庁令第三七号)が発布された。警視庁令の第一条には「貸座敷引手茶屋ノ営業ハ警視庁ニ於テ指定シタル貸座敷営業指定地ニ限ルモノトス」と定められている。原則は、貸座敷を主要交通路に面しては投置できないということである。

しかし、従来から営業している業者には既得権が認められた。明治政府は、新吉原、千住、新宿など江戸時代に成立していた遊廓を追認する。古くからの地域にくわえて、洲崎や八王子などが新たに指定された。これで、東京府下の指定地は、新吉原、千住、新宿、洲崎、八王子となった。廃止もされなければ縮小もされず、遊廓はかえって拡大したといわねばならない。

もうひとつ重要な点がある。明治時代の状況を考えるとき、私たちは、〈欧米諸国では人権が尊重され廃娼運動がすすんでいるのに対し、後進国の日本には伝統的な遊廓のしくみが残存していた〉という図式のなかで理解しがちである。しかしながら、藤目が指摘するように、娼婦の登録と性病の検診とがセットにされた公娼制度はヨーロッパで確立されたものであり、日本政府は、これを近代医療と組み合わされた先進的な制度として受けとめていた。

帝国主義の装置としての公娼制度が、欧米の「先進国」から輸入される。そして、それが江戸時代以来の遊廓のしくみ、すなわち集娼方式に「接ぎ木」されたといえばよいだろうか。近世的な集娼方式という台木がすでにあり、それが社会に根づいていたからこそ、外来の公娼システムが生育できたということかもしれない。結果的に遊廓業者は変革の時代を生き残った。その後も産業化や軍国化の進行のなかで需要がのび、業界は好況を迎える。「娼妓取締規則」が内務省令として制定され、売春営業の構造が固定化された一九〇〇年というのは、そのような段階であった。たしかに、娼妓取締規則では十八歳未満の者の従業が禁じられるなど遵守事項の明文化や罰則の強化がはかられている。しかし、その点を除くと、従来の遊廓営業を追認するような内容だったといえる。

明治の大きな社会改革に際しても、集娼政策からの脱却はなかった。むしろ、集娼政策を堅持する方向で事態は推移したといえる。詳細は略すが、その後も東京などの都市部では私娼が増加する現象がみられた。警察はこれを摘発し、売買春が遊廓から外に溢れ出ないよう取締を行っていく。

このとき、「性病予防」という名分も存娼論を支える大きなになっている。遊廓に娼婦を集めて検診を義務づけておけば、性病の拡散を予防できるという衛生面でのメリットが意識されていたのである。遊廓から納められる賦金は娼妓の検黴費用のほか、警察の探偵費にも充当された。このあたりも江戸時代と同様であり、風俗の統制は、一貫して衛生や治安にかかわる政策と表裏の関係にあったといえる。さらに政府は、海外に獲得した植民地などでも類似の政策を採用していった。

(P26~35)

出典:風俗営業取締り/永井良和 講談社(2002)


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文献倉庫追加 風俗営業取締り/永井良和(2002 )

【文献倉庫 公娼制度】
①吉原花魁日記/森光子(1926)
②娘を売る村 日本残酷物語(1960)
③娼婦たちの天皇陛下/佐木隆三 (1972)
④巫娼(ふしょう)のおもかげ/谷川健一(1972)
⑤からゆきさん/森崎和江(1976)(工事中)
⑥吉原はこんなところでございました/福田利子(1986)
⑦性の歴史学/藤目ゆき(1997)
⑧風俗営業取締/永井良和(2002)
⑨さいごの色街 飛田/井上理津子(2011)
➉植民地朝鮮の公娼制度と「慰安婦」制度/宋連玉(2015)