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東京訴訟:次回 第14回口頭弁論(結審)11月28日


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関東軍兵士の証言集【参考】

以下は、陸軍慰安所ではなく公娼施設の例である、場所が特定できない等の理由で、参考資料とした


参考:旅順(公娼施設の例)


長尾和郎(関東軍兵士) 1943年

旅順の町にも遊廓があった。旅順銀座から6、7百メートル入った一角で、その家々の背後には広い野原があって、樹木が茂っていた。道路をなかにして、両側には暖簾やネオンで色どられた店が、ずらり軒を列ねている光景は、東京の場末の花柳街を彷彿させるものがあった」「旅順の遊廓は、軍隊のために特別に設けられた施設ではなく、在留邦人の慰安施設も兼ねていたので、家の造りや女性たちの姿体は東寧とは雲泥の違いがあった。単なる兵隊たちの排泄装置ではなく、情緒的なものがただよっていて、『地方色』豊かな花柳街といった感じが強く、それが兵隊たちには余計楽しかった。だが、旅順にも日本、朝鮮、満州といった女性の格付が行なわれ、なかには白系露人の女性もいたが、日本女性は自他ともに『芸者』で通っていた」(P110~111)

出典:関東軍軍隊日記―一兵士の生と死と/長尾和郎 経済往来社(1968)

注)ここで長尾が言及しているのは、陸軍の慰安所ではなく旅順の公娼施設の例である。


参考:海城(慰安所ではなく公娼施設の話である)


鈴木武夫(元満州国奉天省海城県警察経済保安股長) 聞き手は中村粂(昭和史研究所代表)

中村粲「検黴を医者に任せるのではなく警察が立会うというのは随分厳重ですね」
鈴木武夫「当時は売春は公認だった。だから病気の者に営業をやらせる訳には行かなかったのです。日本人と朝鮮人の売春婦の原簿があって、それを私の部下が病院に持って行き、名前を呼んで検査するんです。」
中村粲「一人一人確認する訳ですね」
鈴木武夫「そうです。警察に酌婦の許可申請を持ってくるんです。それがなければ営業は出来ない。殆ど朝鮮の人だったが、戸籍謄本と医者の健康診断書、それと親の承諾書、本人の写真、そして許可申請を一括して私の所へ持って来る訳です。ですから、強制連行とか、さらって来たなんて云うものではない。何でさらわれて来た者に親の承諾書や戸籍謄本がついてくるのか。私が保安主任だから、私がそれを見て、またその上に本人を呼んで顔写真と見比べて、「あんたは強制されてきたんではないか、さらわれたんじゃないか」と聞いて確認する。意に反して酌婦にされたんじゃないかどうかを確認する。本人がそうではないと云うと、私が「許可して然るべし」と書いて判子を押し、それを署長に出すと一週間位で許可になる。そこで電話で許可になったことを伝えると業者が許可証を取りに来るという訳である。」
(中略)
鈴木武夫「新聞などでは随分悲惨だったように云われてるが、朗らかなもんだったよ。歌は歌うし、愉快にやっていた。私も若かったので正義感もあった。そこで「なんでこういう商売をするようになったんだ」って聞いたら、「それはこれ(カネ)だ」って云ってた。彼女達の中の一番の売れっ子をオショクと云ったが、彼女など月の稼ぎが三百円(今の九〇万円位)と云っていた。帝大を出た男の給料が七〇円の時代にだよ。そんなに稼いでいたのである朝鮮人の女は「故郷へは送金したし、家も建ったし、畠も買った。あとは貯金を持って故郷へ帰ろうと思う」と云っていた。美味しい物を食べて、いい着物を着て幸福でしたよ。」(P107-P109)
(中略)
中村「すると満州の慰安婦は軍ではなく警察の所轄だったのですね」
鈴木「そうそう、軍ではない。(ばかばかしいので中略)軍は全然慰安婦にはタッチしない」(P109)

出典:『慰安婦問題 日本の証言』 正論 2014年12月

注)鈴木氏も中村氏も、軍慰安所の例と完全に思い込んでいるのだが、これは明白に旧満州の公娼施設の例である。内地の警察が、公娼施設の「管理」を担当するのと同様、日本の「公娼制度」を移植された「満州国」で、満州国警察が、「管理」を担当していたこということに過ぎない。鈴木氏も中村粂氏も、もちろんご存じなかったろうが、関東州、旧満州では、日本で言う「娼妓」を「酌婦」と称していたと言う実証研究がある(倉橋正直氏)。例えば、日本内地で「酌婦」が「売春」に従事する場合は、モグリの「密淫売」で、取締の対象である。なぜ、この「混同」が起こったか、説明は長くなるので省くが、「警察官」であった鈴木氏が内地で言う「娼妓」を「酌婦」と称して、全く疑問に思っていないのだから、二重三重の無知と言う他はない。

鈴木氏の証言で分かるのは、「満州国」の「公娼施設」では、日本内地と同様に「娼妓」に対する意思確認も、「親の承諾(これは承諾書と言うよりも債務の連帯保証)」も、関係書類の確認も、女性を「売春」に従事させるために、必要な手続きと認識されていたと言うだけの話なのである。(きちんと実行されたか、実情は分からない)。

公娼制度の移植過程については、藤永壮氏の「日露戦争と日本による「満州」への公娼制度移植」という論文があり、WEB上で読める。例えば、上記の長尾和郎氏は、旅順の公娼施設の例を語っているが、こちらは関東州で、れっきとした日本の「植民地」であるから、全国遊郭案内(1930)デジタル版にも記載されている(但し、関東州でも満鉄付属地に関しては、1937年に「満州国」に行政権を「返還」している)。

また、帝大を出た男の給料が70円と書いているが、旧満州の慰安所の場合、朝鮮人慰安婦は一回の料金がほぼ兵士一人あたり一円五十銭に統一されている。女性の取り分が(よくて)半分として、75円を稼ぐのに、100人の相手をしなければばらない。しかも、「「帝大出の男」の例は内地の話で、慶応大学を出て、満州中央銀行に入った人(武田英克氏)によると、初任給が手当を含めて171円であったと言うことである(満州脱出/武田英克 中公新書(1985)P169)。月200人の相手をしても150円。これでも、武田氏の初任給にも及ばないことになる。シツコク、この例を説明すると、年間1200人の相手をすると、内地で「帝大」を出た人間より、少しマシな程度の稼ぎ、年間2400人を相手にしても、武田氏に及ばない。もちろん、ボーナスはなしである。


参考:遼陽(ソ連兵による強姦)


辻薦(関東軍技術将校)1945年

「(遼陽)造兵廠は、軍人軍属の家族のほかに、南満の各都市から派遣されてきた学徒勤労奉仕隊の女子生徒や、日本からはるばる徴募されてきた女子挺身隊の独身の娘たちも抱えていた」「都市で(ソ連軍の)兵隊たちがほしいままにその野望を遂げているのを聞き知ると、造兵廠の(ソ連軍の)兵隊たちも女を求めて動き始めた」「私たちは、やむなく“特攻隊戦法”をとらざるをえなかった。それは特定の婦人を犠牲として敵にささげる戦法であった」「真田中尉が、遼陽市から芸妓の経歴のある日本婦人を一人探し出してきて、ソ連の守備隊長と一軒の宿舎に同棲させた。思わぬ贈物によろこんでいる隊長に、交換条件を出した。兵隊たちのためにも特設の慰安所をつくるから、一般の婦女子を凌辱することは絶対に取締ってほしいと申し入れた。隊長は確約した。隊長の専属となった婦人はよい人で、隊長をうまく内部で操縦して、私たちのために蔭でよく尽くしてくれた。しかしこれも長くは続かなかった。2週間もたたないうちに、局部の裂傷のため入院して治療を受けなければならなくなった。日本婦人の接待の味を覚えた隊長は、さっそく代りの婦人を要求してきた」(P74~76)

辻薦著『月は光を放たず―満洲敗戦記』北洋社(1978)


参考:安東(ソ連兵による強姦)


岡田和裕(旧満州出身の作家) 1945年

三業組合の幹部の一人が壇上から、悲壮な声で叫んだ。
「ロスケは女とみれば見境なく犯すッ。北満でも新京でも奉天でも、そうだったッ。善良な主婦、汚れを知らない娘たちが、ソ連兵の欲望の犠牲になったッ」
会場は不気味なほどしずまりかえっていた。
「この安東で、そのような悲劇を二度と起こしてはならないッ。あなたたちの貴い犠牲によって、この安東が、いや日本人が救われるのだッ。どうか志のある人は志願してほしいッ」
女たちの反応は鈍かった。日本人会と三業組合の間では、賤業についていた女たちを、人身御供としてソ連兵に差し出すという合意ができていた。およねやお町だけではなく、ここにいる女たちも、あらましそのことは知っていた。
女の一人が立ち上がった。
「この間まではわたしは芸者だったけど、いまは自由の身です、普通の女です。そんなに安東が大切なら、まず幹部さんたちの奥さんに頼んだらどうですか」
あたりをはばかるようにパラパラと拍手が起きた。その拍手にうながされるように別の女が立った。
「世の中は変わったんだよ。もう、あんたたちの言いなりにはならないよ。だいたい、わたしたちが、なんで犠牲にならなければならないのよッ」
怒りをあらわにした女の言葉が、女たちに火をつけた。拍手と怒声で会場は騒然となり、収拾がつかないまま散会になった。
(P79~80)

女たちも追い込まれていた。女たちは、自分が働いていた元の廓の一角に、あるいは置き屋の一隅に、かつての雇い主の厚意にすがる形で住んでいた。首を縦にふらない女たちに、、元の雇い主たちが、しだいに苛立ちはじめたのだ。そんな雇い主たちにも、外からのプレッシャーがかかっていた。
「文句を言うやつは昔のように、ひっぱたけばいいんだ」
「甘い顔をするからいけないんだ。どうせ使い古しのアバズレだろう」
満州くんだりまで流れて来て春をひさぐ女たちに、幸せな女がいるはずない。
体を売って稼いだ金の大半は内地に送金しており、蓄えなどあろうはずがなく、また廃業時に雇い主から一円の金も出たわけではなかった。安東の遊郭は、二、三番通りの安奉線がまだトロッコだったころの始発駅の鉄一浦駅前(現在は江岸線の貨物駅)、日露戦争当時、軍需物資の陸揚げで賑わった辺りを囲むようにしてあった、収容力のある元の遊郭の建物には、大勢の疎開民が住んでいたが、その疎開民からも冷たい目が、女たちに向けられるようになった。
とうとう彼女たちは、雇い主から、「言うことが聞けないのなら出て行け」という最後通告を突きつけられた。
女たちは日本人社会から村八分にされるのを、何よりも恐れていた。そして恐れていたことが、一歩現実に近くなった。
この混乱の時期に日本人社会から孤立しては生きて行けない。
もともと廓の女たちは、一般社会から疎外された存在ではあったが、それでも廓の中では、疎外された者同士の連帯があった。
しかし廓から追い出されて、それさえもなくなったら、何を頼りにどうやれば生きて行けるのかが、女たちにはわからなかった(P86~88)

出典:満州安寧飯店/岡田和裕 光人社NF文庫(1995/2002)


参考:承徳(映画の中の慰安所)


http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou72/heitaiyakuzanagurikomi.html

1967年の映画、「兵隊やくざ殴り込み」の紹介サイト。ウンザリする話ばかり載せているので、たまには、こんなのもいいだろう気持ちもあるのだが、千田の「従軍慰安婦」(1973)が出版される前の映画で、旧満州の慰安所に対する当時の一般の認識が分かる例としてリンクを貼ってみた。日本国内でも、慰安婦がなぜ戦地にいたのか、慰安所がなぜ存在したか、全く分かっていなかった頃の映画であるので、例によって、ネット上ではテキトーな情報が飛び交っている。

兵隊やくざ全シリーズについては以下に詳しい。

http://www.asahi-net.or.jp/~hi2h-ikd/film/heitaiyakuza.htm


参考:満州某所


富村順一の証言

「昭和23年ごろ、第一回目の沖縄知念刑務所を出所したころのことです」「私は5千円をもってパンパン町というところへ遊びにいったが、女たちは『ニンニクくさい、ニンニクくさい』といって私に寄りつこうとしない。母のつくってくれたスキヤキにニンニクがたくさん入っていたので、くさかったのだった。ただ一人の女が逃げずにいて、『ニンニク食べたの』ときいていた」「その日は町をブラブラ歩いて帰ったが、翌日もそのパンパン町にいくと、昨日ニンニクの話をした女が私のところへきて、ニンニクを売っている店を知っているかときいた。沖縄でニンニクの漬物を売る店はないので、母が自家用として漬けていることを話すと、女はお金とタバコをあげるから、あなたのお母さんからニンニクを分けてもらってくれとたのんできた」「その女は本土の女で花子といっていた。人の話では、戦後本土から流れてきたとのことだった。私はすぐ家にいって母からニンニクを受け取って花子のところへいくと、また金を千円出し、酒と肉を買ってきてくれとたのまれた。私が酒と肉を買って帰ると、花子は、今夜は仕事をやめるから2人で一杯飲もう、といいだした」「花子は一軒の家を借りていたので、2人で花子の家にいった」「(スキヤキの)全部準備が終わると花子は手を洗い、ふところから二枚の写真をとりだして、タンスの上に並べ、その写真の前に酒とニンニクに味噌をまぜたものを置き、私のわからない言葉で泣きながら写真に話しかけていた。私は花子がなぜこんなに泣き、酒をガブ飲みするのか意味もわからず、酒を飲む気にもならないでいた。酒がまわった花子は泣きながら、私は日本人でない、朝鮮ピイだといいだした。花子から朝鮮人であるときかされるまで、本土の女とばかり思っていたので、朝鮮ピイときいて、私はびっくりした。花子は泣きながら、日本人は鬼より悪いヤツ、とののしっていた。よくきくと、花子には親類もなく、一人の姉さんも日本軍のために身投げをしたとのことだった。
姉さんには婚約者がいたが、戦争がはげしくなったので朝鮮人も軍人として出征することになり、相手の婚約者も軍隊にとられたという。そのため、姉さんも野戦看護婦として志願することになったので、花子一人では淋しいもんだから、お姉さんとともに志願したとのことだった。1か月ほど看護婦の学校で学んでから『満州』へ野戦看護婦としていった。そこで10日間ほど仕事をしていると、軍医から5、6日軍人の慰問にいくようにと命令があった。そこへいってみると、慰問というのは軍人相手の売春であって、その夜にむりやりに日本軍人の相手をさせられた。花子たち姉妹2人だけでなく、ほかにも何人かの朝鮮人女性がその夜から売春婦にさせられた。花子も姉と同じように、その夜生まれてはじめて男を知ったという。花子はその話をしながらタンスの上から写真を取ってきてわたしにみせてくれた。写真には花子と姉が白い看護婦の服装で写っていた。姉はそれから3日目に投身自殺した。姉は婚約者にすまないといい、日本人を心から憎しみののしって死んでいったという。花子は自分は意気地がないから日本軍にオモチャにされても自殺することができなかったと、くやし涙で話していた。
戦争がはげしくなり、花子たちの部隊は南方方面へいくことになり、13人の女たちといっしょに船で南方へ出発したが、花子たちには港の名前さえ教えてくれなかった。南方方面へいく船は5、6隻で船団を組んでいったが、途中何隻かがアメリカの潜水艦に沈められたため、花子たちはやむなく沖縄におろされたという。沖縄では、はげしい戦争のさなかでも、毎日何十人となく日本軍人の相手をさせられ生きた心地はしなかったという。
花子は少し足を引きずっていたが、戦争中米軍に撃たれたといっていた。花子は一人で酒を飲みながら、ときどき朝鮮語で写真に話しかけたり、泣きながら写真にほほずりをしていた。私も花子の話をきき、男泣きに泣きながらひと晩じゅう花子と飲み明かした。朝になると、花子も酔いが醒めたらしく、自分が朝鮮人であることを人にいってくれるなとたのんでいた」(P138~142)

十字架と天皇/富村順一(たいまつ新書)(1977)


参考:満州某所


『オオカミに食べられた慰安婦』築城部隊(76歳)

私は、関東軍の築城部隊に所属、昭和一二年(一九三七)から一九年(一九四四)まで、ソ連との国境地帯を転々としました。
築城部隊というのは、トーチカを造る仕事ですが、私は、慰安所も建てました。一部屋は三畳ほどの広さで、板ばりでした。料金は、一円五〇銭ぐらいでした。一人が一日に五〇人ぐらいの兵隊の相手をしていました。大勢並んでいますから、一人せいぜい二、三分です。日曜日にあまり殺到するので、他の曜日は、各部隊で相談して割りふりました。
一度、一三歳ぐらいの慰安婦を陸軍病院へ運んだことがあります。大勢の兵隊の相手をしたため、性器が腫れ上がっていました。おさげ髪の女の子でした。
朝鮮人慰安婦たちは、兵隊の洗濯女という募集を見て来たということでした。だまされたと話していたのを覚えています。関東軍の御用商人が、慰安婦を幹旋していたようです。
慰安婦婦たちは、一カ所に囲われていて、おそらく自由はなかったものと思います。逃げ出したとしても、国境地帯は、オオカミや熊がいたため、襲われたでしょう。
国境地帯は、大変寒さの厳しいところです。私はそこに一〇年間いましたから、いろいろなことを見ました。忘れられないことがあります。それは、死亡した慰安婦がオオカミに食べられたことです。そこでは、死体は、裏山の墓地に捨てました。冬は土が凍って掘れないので、そのまま放置して帰ります。
ある日のことでした。夜中に歩哨に立っていると、後ろで音がしました。見ると、オオカミが人間の臀部を食べていました。歩哨に立った次の日は、休みがもらえました。慰安所に遊びに行ったら、一人の慰安婦が死んだと聞かされました。あれが、その「朝鮮ビー」だったのかと思いました。

出典:従軍慰安婦110番/明石書店(1992)


参考:朝鮮総督府


杉本幹夫(自由主義研究会理事)

「かねて将来の徴兵制施行を考えていた南総督は、この請願を受ける形で、『朝鮮人特別志願兵制度』の創設を本国政府に提案した。この結果、日本軍の兵力不足を補う目的で、同年12月24日『朝鮮人特別志願兵制度』を閣議で決定した。翌1938年に400名を採用し」「その後5年に亘って志願兵を募集したが、応募者は次表の如く驚くほど多かった。これに対し制度創設当時の朝鮮軍司令官小磯国昭は『葛山鴻爪』に次のように書いている。『総督府は各道に亘り志願兵を募集したが、かねてから筆者が心配していた通り、真に父兄及び本人の熱烈なる自発意思で志願する者は、事実において寥々たる有様であったらしく、各道とも志願勧誘に大童となっていた様子である。殊に警察官の干渉・説得が強く、父兄及び一般青年はかなり困惑した模様であった。勧誘説得がかく強烈になった裏面の実状は、自己担任地域からの志願者数の多いことを以て、行政成績の向上となし、上司からの信頼を厚くしようとする、利己的考慮から発露した点もあったことは争われぬ事実であった。総督府の学務当局また、時々各道別に出願者数の増加していく状況を新聞に発表し、各道をして競争させるような手を打ったことは筆者としては甚だ苦々しい事だと思っていた』。兵役終了後は巡査とか、面(村)事務所に就職を約束するといった甘言に乗せられた人たちや、脅しによりやむなく応募した人もかなりいたようである。しかし少年航空兵・予科練等に応募する朝鮮人の中には、血書で嘆願する人も多数いたことも事実である」(P94~P95)

出典:「植民地朝鮮」の研究/杉本幹夫 展転社(2002)


参考:朝鮮(仁川)から満州へ


吉原勇(当時7歳)1945年7月

『お姉さんたち、どこへ行くの』
『親方から満州だって聞かされているわ。関東軍から早く来いと催促されているみたい』
『どうして満州なんかに行くの』
『知ってる?内地は空襲が激しくなっているのよ。南方はもっと危険でしょ。満州だけは日ソ不可侵(中立)条約があるから安全だと親方が言っているの。みんなも納得したわ。だからよ』
(中略)
『このトラックで行くの』
『多分そうね。明日か明後日には鴨緑江を越えるわね』
『じゃーね、聞くけどお姉さんたちどこから来たの』
『私は四国の愛媛県だけど、みんなバラバラよ。この中で日本人は4人だけ。あとはみんなこちらの人』
『お姉さんたちは慰安婦だってみんな言っているけど、本当にそうなの』
子供に慰安婦と呼ばれても女は怒る様子はなかった。
『そう呼ばれても仕方ないわね』
『ねえ、慰安婦って、人さらいのようにして連れていかれるってよく聞くけど、お姉さんもそのようにして連れてこられたの』
『話には聞くわね。でも私は家庭の事情で仕方がないの。この中の人も、朝鮮の人がほとんどだけど、無理矢理連れてこられたという人は1人もいないわよ。みんなそれぞれ事情があるの。好きでやっている人もいるしね。人さらいという話は女の子に行動を慎むよう、警告の意味で言われていることではないのかしら』
ざっとこういう会話を交わしていると助手席から親方と思われる人が降りてきて、荷台に上るよう女を促した。女が乗り込むと親方は簡易階段を荷台に積み込んで助手席へ戻り、まもなくトラックは出発して行った。(P29~31)

出典:降ろされた日の丸ー国民学校一年生の朝鮮日記/吉原勇著 新潮新書(2010)

注)7歳の子供にこれだけのことが聞き出せるとはとても思えない。証言としては、終戦間際になっても満州に移動した「慰安婦」を見たと言うこと以外、全く使えない。元「慰安婦」の証言は、信用できないと簡単にはねつけるのに、なぜこのような証言は、堂々と採用するのだろうか。小野田寛郎氏が、17歳の時に見たと言う、漢口の積慶里慰安所の証言よりもまだ酷い。いい加減なことでは有名な新潮新書だから当たり前と言われれば、返す言葉もないが、典型的な例として敢えて(私のメモも兼ねて)記載した。


満州中央銀行電話記録


吉林省の档案館(記録保管所)が公開した満州国の慰安婦関連文書の記事(満州中央銀行電話記録)

1945年3月27日から4月19日までの「経済部、満洲中央銀行、奉天、牡丹江、鞍山支店及び日本大使館等の領事館経費、旅費、慰安婦調達資金等についての書簡・電報」には、満州中央銀行鞍山支店が関東軍第四課の承認を経て、軍用公費として日本軍の慰安婦調達専用資金の振替を行った記録がある。同様の形式の慰安婦経費振替は他の電話記録にも多くある。

出典:人民網日本語版(2014/1/10)

元記事URL:http://j.people.com.cn/94474/204188/8508723.html

原文画像(リンク切れのため保存した写真にリンク)
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2014年に吉林省の档案館(記録保管所)が公開した資料(2014年)に関しては、日本のメディアはほとんど報じなかったが、中国、韓国のメディアは多く報じている。その中で、最も研究内容を正確に把握している記事から引用した。関東軍第四課は、満州国全般に政治工作を行う部署。満州中央銀行もその管轄に入る。当時(終戦間際)の課長は、関特演時の慰安婦「調達」を主導した原善四郎中佐である。内容は、満州中央銀行の鞍山支店支店長代理が、銀行の本店に振替を処理していいかどうか、お伺いを立てたもので、本店で電話を処理したのは、資金部外資課(他の一部報道による)。

送金人は「准海省連絡部(7990部隊)」、受領人は「鞍山経理司令部」、金額は252,000円と言う案件である。電話記録の本文については、読み取れない部分が多いため、詳細を理解するのは難しいが、文面から確かなのは、受取人の「鞍山経理司令部」と言うのは、実は、「在鞍山の民間人」である米井つる(これも詳細は不明)で、今までも多額のカネが、米井つる宛に送られており、今回も252,000円が送金されると言うこと。もちろん、「准海省連絡部(7990部隊)」も、単なるダミーの可能性があって、送金者が本当は誰か判然としない。文面に「慰問婦」と言う文字があるので、中国側の解釈は不当だと言う意見があるが、決済の許可を申し出ている部分には、「部隊名義の慰安婦仕込資金二十数万円」という記述があるので、これは確実に慰安婦「調達」資金である。「経済部」と言うのは、満州国経済部の可能性があり、銀行単独では処理できないので、どうしたらよろしいでしょうかと中央官庁に聞いているのかもしれない。

現在の時点で、素人の私に言えることは、これくらいなのだが、満州中央銀行(満州国の日銀にあたる)も、はっきりとカネが慰安婦調達資金だと、認識していたわけだ。興味深いのは、「同様の形式の慰安婦経費振替は他の電話記録にも多くある。」という部分。全部、公開されたら関東軍四課が、この問題にどう関わっているか判明するだろう。
これは「常識」に属することだが、関東軍はアヘン売買(売買自体は民間が行う形をとったが)により、他地域の陸軍とはケタの違う多量の裏金を所有していた。もちろん、中国の研究者もこの認識は確実にもっている。

(追記)中国でのアヘン取引を取り仕切っていたのは、民間人の里見甫であり、満州国の高官であった古海忠之は、「経済部」在任中に、関東軍の依頼を受けて、上海でアヘン取引に従事していた里見に、熱河産の阿片の売りさばきを依頼したとされる。ちなみに、里見は関東軍四課の嘱託をしていたことがあるし、准海省は汪兆銘政権下の省である。と、ここまで書いてきて、面白すぎて、「できすぎ」と言う感じが、自分でもしてきた。この問題は別記事として独立させる予定でいます。

いまのところ、どうこの資料が扱われているかと、ネットで検索してみると、某幸福の科学関係さんのサイトでは、「つまり、これは中国の軍閥と民間業者との間でのお金の流れを記したもので、「強制連行」や「性奴隷」を示すものではありません。」とある。なぜ、「中国の軍閥」が鞍山経理司令部こと米井つる宛に、「慰問(安)婦の仕入資金」を、送金しなければならないのか、なぜ、「米井つる」がカネを受け取るのに、関東軍四課の発行した証明書が必要かということは、理解に苦しむが、まあいいとしよう。


だが、「外国(准海省連絡部(7990部隊)」からの送金を受けた満州中央銀行の鞍山支店の支店長代理が、本店の「外資部」のお伺いをたて、その処理の可否について、「外資部」が満州国の「経済部」にお伺いを立てようとしていることは、認識できているわけで、ある意味、「単なるダミー」と書いた私よりも、いい所を突いていたのかも、とホメてあげたい気持ちになってきた。「軍閥」でなければ、送金者は誰かということだ。関東軍四課の関わりは、満州中央銀行の銀行業務に関してのことだけではないかもしれない。

上記の「経済部」と言うのは、満州国経済部であるのはほぼ確実で、満州中央銀行に「経済部」は存在しないし、平素から関東軍四課と経済部と深い関わりがあったことは、銀行で貨幣発行業務に関わった武田英克氏の「満州脱出 中公新書(1985)」の中にも書かれている。


参考:関東軍司令部 終戦時の阿片の処理と参謀四課


満州国官僚古海忠之の証言

昭和十五年(一九四〇年)六月、私が経済部次長に就任し、折柄、支那事変の長期化と第二次世界大戦の勃発に伴い日本経済が準戦時体制に移行し、統制経済化する余波を受け、満洲国経済も統制化に進まざるを得なくなった。その構想に苦慮しつつある頃のことであった。
関東軍第四課が対北支阿片謀略を案出し、その実行を図ろうとした。当時、満洲国対華北の貿易関係は日本への緊要物資の増送と見合い満洲産業開発五カ年計画の遂行上、華北よりの輸入物資とくに製鉄用粘結炭および鉄鋼石等の輸入は莫大な量に上った。これに反し、北の要求する食糧および木材等はあまり輸出できなかったため、満洲国は年々、為替上は巨額の支払い超過に悩まされた。満洲国に対する支払い強要の風当りは、そのまま北支方面軍の関東軍に対する強圧となり、関東軍としても何とかしようと考えているときに思いついたのが、熱河の阿片であった。
熱河は満洲国における阿片の主産地であるばかりでなく、中国の主要産地の一つである。満洲国は阿片断禁政策をとり、従って熱河の阿片はすべて国の機関である専売総局で、後には禁煙総局で収買し管理する建前になっていた。(P120~121)

翌二十年七月、関東軍第四課は民生部に対し、新京周辺に貯蔵する阿片を全部軍に引渡すよう要請した。関屋民生部次長は私に如何に処置すべきかを聞いてきたので、私は軍の意図を糺したところ、通化に備蓄するためという。そこで私は関屋次長に全部渡すよう指示した。こうして関東軍に
引渡した阿片は莫大なものであった。関東軍はこの阿片を広く大きい正面玄関に積み上げた。まさに異観であった。ところが、関東軍がこの阿片をなかなか通化に運べないでいるうちに、八月九日早朝、突如ソ連軍は東部および西部国境を越えて一斉に満洲に侵攻を開始した。驚いた司令部は同日トラックに阿片を満載して通化に向わせたが、新京城内を通過中、不意に暴民の襲撃を受け運転手は射殺され、阿片は全部奪い去られる事件があり、阿片の通化輸送は中絶してしまった。
十一日、関東軍司令部および満洲国皇帝、政府高官は通化省に移駐し(関東軍司令官の命令による)た。私は通化への移駐を非なりと信じ日系次長とともに新京に踏み止まった。その関係もあって関東軍第四課長代理原参謀は新京に残り、何や彼やと私に要求することをやめなかった。
八月十五日、日本は全面降服し、これを受けて満洲国は皇帝の退位と同時に解散を決定した。こうなると、やがてソ連軍が新京に進軍してくるに違いない。そのとき関東軍司令部に阿片の山があったことが明るみに出たら、それこそ日本軍は弁明の余地なく非常な恥辱となるであろう。早く処置すればよいのにと陰ながら考えてもみたが、関東軍にはそんな様子もなかった。
八月十九日昼、遂にソ連軍の先遣部隊が三百人ほど飛行機で新京に進んできて関東軍の門前に姿を現わした。このとき関東軍はやっと阿片の処置に気がつき急に狼狙しはじめた。そして困りはてた末、原参謀は私のところに電話をしてきて阿片の始末を懇願し哀願した。私は「阿片を隠す方法は、適当な所に穴を掘り埋める以外にない。軍には兵士も相当いるわけだから、これを使って直ぐ始めなさい」といって電話を切った。それから何度、電話をしてきたことか。そして泣かんばかりにして頼むのである。私としても関東軍が多量の阿片を所有していたという醜状を示したくないと思っていたので、とうとう根負けして阿片を関東軍から引出して隠すことを引受けてしまった。そこで原参謀に対し、今日、日が暮れたら関東軍の通勤用大型バスを玄関前に用意すること。それに阿片全部を積込み密かに営門を出て、こちらが指定する場所までバスを運転するよう命じておくこと。なお私は司令部に、この仕事に当る者数人を派遣することを申し伝え、その準備をさせた。(P128~129)

出典:忘れえぬ満州国/古海忠之 経済往来社(1978)

追記)原善四郎氏の経歴について

古海の回想に出てくる、この原参謀と言うのが、マチガイなく原善四郎氏であるのかという質問を受けたので追記すると、マチガイなく、関特演時の朝鮮人慰安婦大量「調達」を主導したとされる、原善四郎氏である。
千田夏光が原善四郎氏に実際に会ってインタビュー記事を書いたというのはウソだと主張した加藤正夫氏が、ワザワザ防衛研究所図書館で調べた、原氏の経歴は以下である。

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1939(昭和14)年8月1日~1941(昭和16)年10月5日:関東軍司令部第一課参謀
1941(昭和16)年10月5日~1942年(昭和17)年1月11日:参謀本部兵站総監部参謀
1943(昭和18)年8月2日~終戦まで:関東軍司令部第四課(対満政策・内面指導)参謀

千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)(P55)より

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加藤氏は、「主要部隊長参謀・在職期間等調査表」及び「陸軍職員表其の一の二=方面軍以上の軍」を参照したとしている。1942年の経歴が抜けているが、加藤氏の元々の文章に記載がないものである。千田のインタビューの中で、原氏は実際の関特演(1941年)時の「慰安婦」動員の実態についてはよく分からない(「関わらないようにしていた」)と語っていたが、なるほど、兵士や憲兵の証言では、この時に「動員」された女性達は、10月から11月に現地に到着しているので、その頃は原氏は既に参謀本部勤務であったわけだ。

原氏が終戦時に、第四課の参謀であったことは、当時、関東軍の作戦主任参謀であった草地作戦主任参謀の証言からも分かるが、面白いのは、原氏が終戦間際に四課の課長から、課長代理に「降格」していることだ。こういうことくらいにしか役に立たない、ウィキペディアによると、原氏が昭和19年10月14日~昭和20年8月7日に、第四課の課長であり、8月7日からは宮本悦雄大佐が課長職を引き継いでいることが分かる。

草地参謀の話からは、原氏が日本人引き上げに奔走していたかのように思われるが、実は「新京」に残って、関東軍の不祥事の後始末のための便宜的な「降格」であることが、古海の証言から伺い知れる。

原氏も原氏だが、正直、徹底的にイヤな役回りを押し付けられていると言う印象だ。古海氏にしろ、草地氏にしろ、まあ、この手の人たちは、自分に都合のいいことしか書かんわなと、改めて思う。


参考:関東憲兵隊司令部 終戦時の文書焼却


吉林省の档案館(記録保管所)所蔵文書の発見経緯(2014)人民網

趙素娟さんは1953年11月に、人民解放軍某部駐長春部隊が地下の電線を修理し、配管敷設場所を探していた際に、偽満州国日本関東憲兵隊司令部跡地の地下に大量の公文書が埋められているのを偶然発見した出来事を振り返った。

「当時、これらの公文書はトラック一杯に積まれていた。長く土の中に埋もれていたため、出土した公文書の大部分は付着し、一部は腐乱して固まりのようになっていた」と趙素娟さん。旧日本軍の戦犯、弘田利光の1954年の供述によると、1954年8月中旬に憲兵隊長・平林茂樹の命を受け、新京憲兵隊本部および憲兵隊司令部の公文書を本部の焼却炉で焼却処分し、処分が間に合わなかった文書を本部裏の地下に埋めたという。趙素娟さんは、発掘された公文書はこれらの焼却処分が間に合わなかった公文書であり、旧日本軍の中国侵略の動かぬ証拠であると説明した。公文書は発見された後、公安部に引き渡され保管・整理されたが、1982年に吉林省公文書館に移され、体系的な整理事業が開始された。

記事出典はこちら
http://j.people.com.cn/94474/8613387.html

内容については、こちらが詳しい:http://datyz.blog.so-net.ne.jp/2014-05-11

注)「偽満州国日本関東憲兵隊司令部」は、現在、吉林省人民政府になっている。関東軍本体の文書類は首尾よく隠せたらしいが、こちらは要するに「県庁」の敷地内に埋まってたということで、指示した人物も埋めた人物も特定できている。お得意の「捏造」と言う言葉など、入りこむ余地のない、見つかるべくして見つかった文書と言えよう。

ネット上では、依然としてこれらの文書の公開について、「大山鳴動して鼠一匹」といった揶揄が飛び交っているが、まだ、「氷山の一角」という文書類からは、既に十分に衝撃的な事実が明らかになっている。おしえてゲンさん-防疫給水部【特移扱証拠文書】には、731部隊に「特移送」されて生体実験のマルタになった被害者の名前と、実際に「特移送」に当たった、憲兵隊長、分遣隊長らの名前が紹介されている。

全憲兵隊に指示が出されていたのだから当然だろうが、ほとんどすべての旧満州の憲兵隊幹部が、「特移送」に関わったことが分かる。つまり、ここまで、旧満州の慰安所の証言者として、紹介してきた憲兵たちは、「特移送」について、すべてを知っていて、沈黙していたということ。同じく沈黙している、「慰安婦」移送への憲兵隊の関与について、文書が出てくるのも、時間の問題だろう。


関東軍兵士の証言集【東正面】
関東軍兵士の証言集【北・西正面】
関東軍兵士の証言集【内陸】
関東軍兵士の証言集【参考】