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執拗なまでのこの差別(後)「続・従軍慰安婦」より

タレ流しも気にせぬ兵隊たち

横浜市野毛の先では、こんな元朝鮮人慰安婦に会った。前編で、ラバウル基地で禁欲半年の待ち受ける兵隊の前に、トラック島経由で慰安婦がはじめて店を開いた時、四キロも列ができたという話を書いた。

それを読んだという方から、〈そのラバウルで慰安婦をしていた韓国人女性を知っている〉という手紙をいただいたのである。

たずねて行ってみると、彼女は六十歳というのに髪は真っ白だった。古びた木造二階建ての飲屋長屋の一軒で、店を持っている人であった。はじめ私を刑事と思ったらしく、

「何の用です」

しきりと警戒していたが、手紙の差出人の名を告げ〈ぜひとも会ってごらんなさい〉と書いてあったことを言うと、

「その人なら知ってるよ。いい人だよ」

と、座ることをすすめ、

「昔のことを聞きたいのだね」

お茶をいれてくれるのだった。これまで元朝鮮人慰安婦で、これはど初対面から話してくれる女性に会ったことが私にはなかった。

「何しに来た」

「何も言うことない、帰りなさい」

刺すような眼で音たてて扉をしめられるのが常だった。

だが、話を聞いているうちに私は胸が悪くなった。

「なにせ一日に三百人くらい相手にしたよ、あの時は。アンペラめくって入って来てあれして出ていくまで三分かかるとして、十七時間はぶっつづけだったよ」

「飲まず食わずですか?」

「炊事軍曹がおにぎり持って来てくれるのを、寝ながら股ひろげながら齧るのよ。こちらが食べている時でも兵隊さんはのってくるのよ。すごかったね。もうできないね、あんなこと」

「・・・・・・・・・・」

「兵隊さんのなかにはあれが長い人がいるね。すると下から胃袋をズキンズキン突きあげられて食べた物を吐きそうになる。それでも兵隊さんはやめない。向こうも必死だからね。何時間も待ってたのだし、ラバウルの街から南にだいぶ行ったココポという場所だった」

その場所のことは前編で書いた。

ここで十七時間ぶっつづけというと、用便の心配もあるはずだが、

「それは、大きい方は慰安婦ながくやってると我慢できるようになるのよ。そのかわり便秘になるけどね。小さい方はタレ流しだったよ。いちいち立って順に行く時間ないし、兵隊さんもそれを待ってくれないからね」

タレ流しとはどういうことだろう。

「兵隊さんが上にのっかっていても出してしまうのよ。のっかられるとできないけど、のっかられる前に流し出すといいのよ。兵隊さんは待てなくなっているから、こちらが流し出しているのに平気でのっかってきていたよ。ああいうところで、ああいう時は何でも平気になるものなのよ。」

彼女はケロリと言ってのけるのだった。それにしても人間はここまで神経を殺すことができるのだろうか。小水をもらしている女性に、平気で接することができるのだろうか。

「濡れても空気がからっとしてるからすぐ乾くしね」

彼女も神経が狂っていたのだろうか。だが胸に暗いものが横切ったのはそのあとの話であった。その時だけ彼女は顔を曇らせたのだが、

「そこでね、日本人の慰安婦が三人か四人いたけど、その人たちは五日目に休養日が貰えたのに、私たちは二十日ほどそうしたことが続いたのよ」

ここでもまた差別である。

「管理は誰がしていたのですか。軍隊ですか」

「軍属みたいな男の人がいてね、御用商人というのだね、その人が私たちに命令したり面倒みたりしてたね。食事などもその人が軍の炊事場に行って、人間の頭数だけ貰ってきて、メンコについでくれていた」メンコとは兵隊の食事用の食器である。ニューム製の丼である。食器まで兵隊のを使っていたのだ。それはいい。

「言われたように、同じ慰安婦でありながら、日本人慰安婦と差別されていたとしたら、不満はなかったのですか。たとえばその御用商人に抗議はしなかったのですか」

「それはないよ。私たちには仕方なかったからね」

「でも不満はあったのでしょう」

「差別されてるのは私たちだけでなかったからね。飛行場設営隊といって、土工が何千人とラバウルには来てたけど、その半分以上は徴用された韓国人だった。ここでも同じよ。一カ月も休みなし、日本人の土工は慰安所に来ることができたけど、韓国人土工は全然来れなかった」

「ラバウルには九ヵ月ぐらいいたのでしょう。その間に一度もですか」

「そうよ。クニの言葉でクニのことなど話そうと思って楽しみにしていたのだけど、一度も来なかったよ。来れなかったよ」

どこまでも朝鮮人は差別されていたのである。彼女の場合は、土地を奪われ生活に困って広島へ移住した両親に連れられ日本に来たが、小学校を出ると宇品港で荷揚人夫向けに、ラムネや菓子を行商する母の手伝いをしていたという。ここで日本人が朝鮮人を最も軽侮して呼ぶ時に使う、

「ヨボ」

という言葉を吐きつけられた記憶が幾度もある。

そうしているうち昭和十四年、軍隊の炊事婦手伝い、にならないかと鳥打帽をかぶった男が母にすすめに来た。

母自身にすすめたのではなく「娘を軍隊の炊事手伝いにしないか、前借金として三百円を渡すけど」
と勧誘したのだという。

「三百円といえばそのころ大変なお金よ。私はご飯炊くのうまかったから、そんなことでお金がこんなに貰えるならと喜んで行く、と言ったのよ。お母さんも喜んでた。ところが行ってみると、いきなり輸送船に乗せられ、何十人の同じような朝鮮娘と一緒に上海へ連れていかれたのよ。すぐ安慶という揚子江に沿った町へ移され、そこではじめて兵隊の相手した」

はじめびっくりしたというが、兵隊たちと同じ食事が食べられることがうれしかったのを憶えている。日本人と朝鮮人の差別のない生活に思えたのである。だが、よく見ると、「そこでも朝鮮人慰安婦は、日本人慰安婦の三倍は兵隊をとらされていた。そのころよくないことと思ったけど、朝鮮人はこのくらいのこと我慢しなければいけない、と教えられて」

「教えたのは兵隊ですか、それとも」

「同じ朝鮮人のお姐さんよ」

「・・・・・・・・・・」

「我慢してるといつかきっといい日が来ると言われたのね。あまりいい日は来なかったけど」

困窮者は祖国に帰れ

ここでふと私は考えた。

ラバウル慰安婦は昭和十七年暮から翌十八年はじめにかけ、トラック島経由で後方に送り返されたはずである。沼兵団(第三十八師団)長・影佐禎昭中将が、非戦闘員女子は後方にさげようと提案、従軍看護婦とともに輸送船に乗せたはずであった。

そこで大半はトラック島入港時に、米潜水艦により撃沈され海没したと聞いていた。したがって考えたのは、本当に彼女がラバウルにいたのか、という疑念だったのだが、

「ラバウルには朝鮮の竜山の部隊も通って行ったよ。ツキ兵団の兵隊だった」

ツキ兵団とは月兵団のことであり、マーカス島作戦からブーゲンビル島に転戦、ラバウルにもどった部隊だった。

それを知っている彼女はやはり、ラバウルにいた慰安婦なのだった。

それにしても慰安婦を利用し得る者は軍人軍属と規定されていた、つまり軍属も兵隊と同様に利用する資格を持っていた。だが戦場で朝鮮人軍属は明らかに男として差別されていた。飛行場設営隊は軍属であるはずなのに、彼女によると彼らは利用を制限されていたというのである。

兵隊たちもそのことに不思議を感じなかったし、日本人慰安婦たちも不思議をいだいていなかったというのである。

影佐中将は慰安婦を送り返したのち、ラバウル近郊の密林へ身をひそめていた中国人華橋のなかから、女性を集め新しく慰安所を開こうとしたが、いずれも断わられると、あっさり諦めている。朝鮮半島で見せた、あの強権とサーベルの音で、朝鮮人女性を狩り集めた蛮行は再現されなかった。

理由として治安維持に問題が起こるということだったが、ここに中国通(当時は支那通と呼んでいた)といわれ、親中国的だった同中将の中国人と朝鮮人の差別を感じるのであろうか。朝鮮半島においては、サーベルを鳴らし若い未婚の女性を選んで狩り集めても、治安に問題がなかったというのだろうか。治安とはそこに住む人間の心の問題のはずではないか。それとも朝鮮は植民地だったから、けだものか野良犬扱いにしていいと思ったのだろうか。

話をもどす。彼女はラバウルを最後に去った慰安婦だったらしいが、トラック島へは沈められることなくつき、テニアン島へと渡ったという。テニアン島はサイパン島の隣りにある小さな島、七月二十四日米軍上陸、八月三日に守備隊八千人が玉砕している。ここで捕虜になったのだという。そして浦賀へ昭和二十年十一月に送り返されたというが、

「つらかったの、それからね」

彼女は忠清北道堤川の農家の出身だったが、金をためてから帰ろうと思った。大宮で殺害された女性、名を金基女といったが、その彼女のように、〈こんな体になってもう帰れない〉とは考えなかったらしい。彼女なりの信念があったのだろう。

「慰安婦やっててためた金は、軍票だったからみなパアになった。兵隊がわしらの体抱いて払う金は軍票ばかり、軍隊でしか使えない金だからね。腹がたつからそのぶん稼ぎなおしてやろうと思った」

のだという。信念というより意地といった方がよいかもしれない。失った稼ぎを取りもどしてやろうと考える奥底には、自分で気づかなくとも失った過去への怨念がうかがえる。過去への復響といってもいい。

はじめた仕事は贋物資の買出しと運搬であった。
「でも女が体ひとつで働いても稼げる金はたかが知れている。それと体を壊してね。寝こんでしまった」
この時、彼女は生活保護を受けることを知人からすすめられる。彼女自身も慰安婦として、四年二ヵ月にわたり兵隊たちを慰める恩義、を日本に尽してきたから、そのくらいのみかえりは、してくれてもいい、と考えたのは事実だった。だが結果は申請却下、その資格がないというのである。

「そんなに困っているのなら自分の国に帰ったらいいでしょう」

と窓口で言われた時、「こんな体にしたのは誰だ。お前たちじゃないか。好きでこんな体になったのじゃないよっ!兵隊には復員手当てを出しただろう。なのにこちらにお前たちは何をくれた」

わめいた。”窓口の人間”が”日本”であり、その”日本”を代表している、ととる彼女を責めることはできない。彼女ははじめ、

「恥ずかしかったけど」

生活保護を受けられるなら、と自分が慰安婦であったことも話した。それを聞きながら、

「自分の国に帰ったらいいでしょう」と言った”日本”に怒ったのである。

以後の彼女の生活ははっきり言って刑法違反であり、覚醒剤麻薬取締法違反である。さらに売春防止法違反である。いまは売春幹旋業が稼業である。

「ヒロポンの売人からポン引きね、いろんなことやったよ」自分ではっきり認めている。「だが誰も私を悪いと言えないよ。日本人の誰も言えないよ」。胸を張って言うのである。

ここでもし彼女を非難しようとすれば、どうしても突き当たるのは、蔑視と差別の問題であり、それが日本の朝鮮植民地政策から生まれた現実であるということだろう。さらに、一日に二百人を越える兵隊の性処理をさせ、野犬収容所の野大よりひどい性処理をさせながら、おむすびを食べさせたこと、日本人慰安婦より酷使されたことが伏線としてあり、その上にこれらがあったということだ。

そこのところを彼女はうまく言えない。説明できないもどかしさが、

「誰も私を悪いと言えないよ。日本人の誰も言えないよ」

尻をまくった発言になっているのだ。

(P158~167:講談社文庫版)

出典:第五章 執拗なまでのこの差別  「続・従軍慰安婦」 千田夏光  1974 双葉社