札幌訴訟:2020年2月6日 札幌高裁 笑ってしまうくらいの不当判決

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東京訴訟:2020年3月3日 東京高裁 笑ってしまうくらいの不当判決を追認した不当判決

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旧満州の慰安所の文玉珠さん

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1996 梨の木社刊

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新版 2015 梨の木社刊

ここでは、旧満州での、文玉珠さんの体験を森川万智子氏が聞き取りをした本「ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私」から引用する。転載許可を頂いているわけではなく、おそらく許して頂けるだろうと言う見切り発車だが、1941年の朝鮮からの関特演時の慰安婦大量「調達」の前の、旧満州のソ満東部国境地帯での慰安所の証言の部分である。「慰安婦」は、関特演時の例に見られるように、司令部が「調達」して、各戦闘単位にばらまくばかりではない。中隊以上については、現地判断で慰安所を開くことが認められていた。もちろん、これが「現地判断」の例だとは断定できないが、可能性は十分にある。

文さんの証言の信頼性については、また別項で論じるつもりだが、個人的には、官憲に強制的に拉致されたことも含めて、記憶違いもほとんどないと考えている。そもそも、当初、文さんはビルマに連行される前に、旧満州に連行されたことを隠していた。「恥を忍んで」告白すると言う経緯があったわけだが、文さんが、当初から「官憲による物理的強制連行」を特別に重要なことだと思っていなかったということでもある。誇張をはさむ動機が見当たらない。

私個人も、特別に証言の中の「強制連行」が重要だと思っているわけではない。基本的に日本軍というのは必要と考えられるものの「員数」を揃えるためには手段を択ばない。時と場所に応じて、状況に適した方法が選ばれる。文さんが入れられた慰安所は、そういう方法をとっていたと言うことに過ぎない。

それよりも重要なのは旧満州への女性達の移送手段と官憲の関わり、慰安所のこまごまとした管理状況、慰安婦「調達」の仕方等が、詳細に残されていることにある。例えば、慰安所から朝鮮の大邱に帰った後、1942年、文さんは朝鮮人慰安所楼主に騙されて、ビルマに再び連行される。その際、集められた釜山の旅館で、旧満州で出会った他の「慰安婦」女性達数人(すべて大邱出身)と出会っている。

桜井よしこ氏が、そんな「偶然」があるのか、といったことを書いてるのを見たことがあるが、もちろん、偶然ではない。大邱の業者の間では、旧満州から帰還した元「慰安婦」少女達の存在は周知のことであり、面倒のない「経験者」の再度の連行が企てられたということに過ぎない(文さんは慰安所に連行されたことを家族に話していない)。

文さんの証言は、当然、関連資料の多さから、ビルマ戦線の慰安所を中心にして論じられてきた。私が以下の証言を読んだ時は、東安省ってのはどこだという程度の知識しかなかったので、ほとんど読み飛ばしに近かったが、兵士の証言をまとめる作業をしているので、旧満州の土地勘がついてきた。東安省だから、第5軍のどこかで、ずばり国境の街とすれば虎頭だが、関特演の前には慰安所はなかったと言う証言がある。だが、この調子なら、そのうちにどこか分かるだろう。

「ビルマの慰安所管理人の日記」のように、思わぬところから、一挙にすべてがつながる資料が発見されることになるかもしれない。

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2.「満州」、東安省へ

憲兵に呼び止められて

季節は秋だった。

その日、わたしは友人のアライハルコの家に遊びに行ったのだった。ハルコの家族は朝鮮人だったが、みんな日本の名で呼び合っていた。ハルコの父親は火葬場を経営していた。朝鮮は土葬の習慣だったが、そのころは日本式の埋葬の仕方が増えてきて、朝鮮人のなかにも火葬をする人が少しずつ出てきていた。日本人の葬式には供え物がたくさんあるので、食べ物をもらえることがあった。わたしはそれを楽しみにして、よくハルコの家に遊びに行ってはおしゃべりしていた。

夕方、歩いて二十分ほどの家に帰る途中、「ちょっとこい」と呼び止められた。

日本人の憲兵と、朝鮮人の憲兵と、朝鮮人の刑事だった。

わたしは恐くて声も出ない。後をついていった。なんの用かと聞くことなど、とてもできなかった。そのころ、朝鮮人であるわたしたちにとって、憲兵といったら、この世でいちばん恐ろしい存在だった。わたしの父も、生きていたときは四六時中憲兵に追われていたのだから・・・・・・。生きた心地もしなかった。

連れて行かれたのは憲兵の詰め所だった。そこには少女が一人いた。その娘の名前をどうしても思い出せない。事務室にある椅子に座らされ、住所は、名前は、家族は、などと聞かれた。聞かれたことに答えると、刑事たちはあちこちに電話していた。そのまま椅子に座ってうたた寝しながら夜を明かした。

翌朝、わたしと少女は大邱駅から汽車に乗せられた。別の日本人憲兵と朝鮮人刑事に引き渡された。どこに連れて行かれるのかわからなかったが、釜山の方向ではなく、北に向かっていることはわかった。途中、食事をするときも、洗面所に行く ときも、二人はわたしたちについてきて監視していた。

「アカツキ」という名の汽車だった。一般の客もたくさん乗っていた。網棚に荷物がぎっしりと積んであった。寝台車も連結されていたが、わたしたちは座席にずっと座っていた。

列車が中国との国境の新義州に着くと、列車を乗り換え、監視の二人が交代した。

また中国側の国境の安東に着くと中国人の警察も乗り込んできた。そして、三人一組になってわたしたちを連れて行った。国境を越えるとき、パスポートもなかったのに、その憲兵たちがなにかいえばとがめられることはなかった。

まる三日ほどかかって着いたところは北部満州のトアンショウ (東安省)といっ た。

そこはロシアとの国境だった。大邱のような大きな都会ではなく、駅のまわりに町があったものの、あたり一面の平原のところどころに、わずかな建物が道路に沿っ て何軒ずつか連なっているという具合だった。

慰安婦にさせられた、オクチュ16歳

連れていかれた家は大きな民家で、部屋がたくさんあった。「グンポール」という名がついていた。二十人ほどの朝鮮人の若い女たちがいた。そのうちの三人ほどは赤色や桃色の派手な日本の着物を着ていた。わたしはすぐに大牟田の釜山館と芸者や女郎のねえさんたちを思い出して、ここは男の相手をする家だということがわかった。主人は朝鮮人の六十歳くらいの男だった。

わたしたち二人も男の相手をしなければならなくなった。

毎日泣いた。

泣いても泣いても男はきた。

毎日二十人から三十人ほどの日本人の兵隊がきた。客は日本の兵隊や憲兵たちだけだった。

女たちはみんな大邱から引っ張られてきていた。名前はヒフミ、カナリヤ、キミコ、ハッコ、ヒトミ、キファ、アキミ、ヒロコなどといった。日本の名前をつけろと主人にいわれ、わたしは、そのころ流行った映画『不如帰(ほととぎす)』の主人公の武雄と波子にちなんで、ナミコに決めた。親方も、炊事をしている女中も、みんな大邸からきていた。わたしは十六歳だったが、十四歳、十五歳の少女もいた。すぐに寒い冬がきた。

軍人たちは厚い毛皮の帽子をかぶり外奪を着ていた。外には雪がとてもたくさん積もった。オンドル(温突=床下にめぐらしたパイプに熱風を通して部屋を暖める装置)があり、窓が二重になっているけれど、二重ガラスの内側や、天井にさえ氷が張るほどだった。床の壁際には細い溝が掘ってあって、そこを壁の水満が伝い落ちて流れるようになっていた。大邱も寒いところだが、比べものにならない。布団の中にいればやっと暖かになるという具合だった。たまに外出すると、マスクの中でわたしの吐いた息が凍ってしまうほどだった。

軍人たちは切符をもってきた。切符の値段がいくらだったのかはわからない。赤い線が二本、ななめにはいっている切符で、四角い判子が押してあった。それを貯めておくと、一週間に一度、軍人が記録しにきた。朝鮮に帰ったら金を払うからといわれていたので、わたしは一生懸命切符を貯めた。なかには、わたしを喜ばせようと、二枚、三枚と切符をはずんでくれる兵隊もいたので、貯まるのが楽しみだった。しかし結局、わたしはトアンショウでただ働きさせられたことになる。ときどき必要なものを買うために金をもらった以外は、もらい損ねているのだ。

軍医が一週間に一度きて性病検査をした。病気にならないために受けなさい、と説明されたので、恥ずかしい検査だったけれどすすんで受けた。検査のための器具を膣の中にいれ、それをだして分泌物を検査する。十人中五、六人は具合が悪く、 三日から一週間ほどは休まなければならなかった。病気だという印は医者からもらう木札で、それには赤い字で「立入禁止」と書かれていた。そのころはなんでも命令だったので、体むことを命令されたのに客をとった友達はひどく叱られていた。
金をもうけたいし、馴染みの客ができていたので、病気だといわれても、つい客をとってしまう友達がいたのだった。

幸いなことに、わたしは休みたくても「立入禁止」になったことは一度もなかった。月経のときさえ休むことはできなかった。吸水力のよい脱脂綿を瞳に詰めて客をとった。終わったあとは大急ぎで洗浄して、また綿を詰めた。消毒液を使って、わたしはきれいに洗浄した。

トアンショウにいるときには、日本が戦争をしているのだとは少しも思わなかった。

ロシアとの国境におかれた軍隊にきている軍人がわたしたちのところにきているのだろう、と思っていた。ただ、大邱とはまったく違う緊張感があった。国境だったのだから緊張しているのが当たり前かもしれない。満州のあちこちの山中には、独立運動をしている中国人や朝鮮人がたくさんいた。

ゲリラ戦が行われていたのだ。

軍人たちが、こそこそと話してくれた。部隊が襲撃されたり、警察署に爆弾がしかけられたり、日本の憲兵や警察官が襲われて殺されたりしたことを。夜、わたしたちの慰安所が襲撃されることもあった。朝起きてみると、慰安所で食用に飼っていた鶏や、買い置きしてある食料品が盗まれたりしていた。銃弾がビューン、ピューンと飛んでくることもあった。そういうときは、わたしたちはありったけの布団を四方の壁にぶら下げて弾よけにした。ひとところにかたまって攻撃が終わるのをじっと待った。ほかの慰安婦たちは怖がって泣いたりわめいたりしていたが、わたしは少しもおそろしくなかった。

ゲリラやスパイがつかまることもあった。見せしめのために、日本軍がゲリラの耳や鼻を削いで山の木に縛りつけたりしていたのをみたこともある。日本軍はゲリラをおそれていた。軍隊の敷地には、松の板をつなぎ合わせた堀がそびえ立って取り囲んでいた。

そのときのわたしは、独立運動についてよくわかっていなかった。慰安所が攻撃を受けたときは安全のために身を隠し、日本軍や日本の警察が攻撃を受けたので用心しろ、といわれれば、「ああそうか、気をつけよう」と思ったほどのことだった。 それでも戦争の雰囲気だけはよく感じていた。

生きる知恵

そういえば、こんなこともあった。

憲兵たちの宴会に呼ばれて町の居酒屋に行ったところ、隣の席に情報を取りにきたらしい独立運動の朝鮮人がいて、酒をのんでいた。その男の雰囲気と特有の服装 から、わたしにはその男がゲリラだとすぐにピンときた。憲兵はなにもわからないらしく、のんきにその男と話をしながら酒をのんでいる。わたしは、憲兵さんは男だから服のことがわからないのだな、と思って知らん顔をしていたのだった。

そうこうしているうちに、わたしは慰安婦の生活に慣れてきた。軍人たちは、こちらがやさしく接すれば、やさしくしてくれることがわかった。日本の歌をうたえ ば喜ぶ軍人が多いことも知った。リ・コウラン(李香蘭)がうたって流行っていた『支那の夜』を台詞つきでおぼえ、抑揚をつけてうたってやった。この歌はよほど流行っていたらしく、兵隊たちがだれでもうたっていた。わたしは今でも全部うたうことができる。

赤いランタン 波間にゆれて 港上海 白い霧 出船入り船 夕空の 星の数ほど あればとて
いとしい君を乗せた船 いつの日港に着くのやら クーニャンかなしや支那の夜

支那の夜 支那の夜よ 港の灯り 紫の夜 のぼるジャンクの支那むすめ ああ忘れられぬ胡弓の音 支那の夜
夢の夜(ママ)

わたしたち慰安婦に、小遣いやいろいろな物を持ってきてくれる兵隊がいた。わたしは、やさしく接してくれたり便宜をはかってくれる人には、帰るときにゲートルを巻いてやったり、流行歌をたくさんうたってやったりして特別にサービスした。
わたしは慰安所で十七歳になった。煙草を吸い、酒をのむようになった。そうでもしなければ男の相手など、できなかった。

春がきて、夏がきて、また秋がくるころだったろう。いても立ってもいられないほど母が恋しく、大邸に帰りたくなった。中秋(旧盆)はわたしたち韓国人にとって特別な行事で、先祖やふるさとを懐かしく思わせる。丸い月がでて「ああ、中秋*」と思ったら、とたんに里心がついて、もうたまらない。

ぬけだしたい

それに、そのときわたしは、これ以上慰安婦を続けてはいけない。心がおそろしいように荒んでいくのが自分でわかって なんとか方法はないかと考えた。

わたしを特別に可愛がってくれている憲兵に頼んでみた。その憲兵が許可をだす権限をもっている、ということは知っていた。だから、わたしはずっと「憲兵さん、憲兵さん」といって、気に入ってもらえるように振る舞ってもいたのだ。

「母が病気だから大邱に戻って看病したいのです。かならず戻ってくるから、汽車の切符を買うための証明書を書いてください。」

憲兵は証明書を出してくれた。主人にも「かならず帰ってくるから、おねがいです」となんどもいって慰安所を出してもらった。

一緒に釜山行きの汽車に乗ったのは、肺病になって働けなくなった二人と、仮病を使ったもう一人と、わたしの四人。友達の名前は憶えていない。寝台車に乗った。 往きのときと違って、こんどは見張りはいなかった。

汽車の中ではいつ逃亡がばれるかもしれないので、憲兵が見回りにくるたびにび
くびくしていた。列車の中を憲兵が交代でしょっちゅううろうろしていた。検札も たびたびある。そのたびに「どこに行くの」と聞かれた。証明書を持ってはいても逃亡は逃亡だ。途中、仮病の一人はばれてしまい、トアンショウへ連れ戻されてし まった。

もしかしたら、わたしたちが兵士からもらった天皇陸下の菊マークのついた煙草をふかし、まわりの乗客たちが「それはどこでもらったか、一本くれないか」と欲しがったので、調子にのって配ったりして目立ったからかもしれない。わたしたち四人は、たしかに普通の娘たちとは様子が違っていたと思う。煙草は吸うし、大声で笑ってはしゃいでいた。だいいち、当時は、娘たちが四人で旅行することなど考えられない時代だった。どうやって手に入れたのか思い出せないが、そのときわたしはコロムビアの蓄音機を持っていた。わたしたちが慰安婦だということは、憲兵にも汽車の客たちにもすぐにわかっていたに違いない。

ついにわたしの番がきた。

二十七、八歳の若い日本人の憲兵が「証明書は持っているか、だれが帰ってもいいといったのか」と、いろいろ問いただしてきた。わたしは正直に答えた。すると、 どこの駅だったか思い出せないが、ある駅でおろされ、詰め所に連れていかれた。

安東だったかもしれない。朝鮮人と中国人の刑事もいたような気がする。もうだめだ、どうやって切り抜けようかと考えを巡らせながら、ふとその憲兵の目を見ると、 目が澄んでいる。一生懸命に頼んでみようと思った。

「たすけてください。お母さんが病気だから、満州から逃げて帰るのです。わたしは憲兵さんからトアンショウに連れていかれ、兵隊さんに身を売らされていまし た。」わたしは泣きながらいった。

憲兵は電話をかけてはいたが、なにを思ったのか、わたしを満州に返さなかった。そして、自分の家に連れていった。

そして、「ここに泊まれ」という。一週間ほどわたしはその憲兵の思うようにされてしまった。通報しなかったお礼にと思った。逃げることはできないのだから仕方がない。食事を作り、やさしく相手してやった。

とかく一人で暮らす男というのは寂しがるものだ。そんなものだと思っている。

もっといてくれというその憲兵を、母が病気だからとにかく大邸に帰らなければならない、かならず戻ってくるからといってやっと逃れることができた。

姉に逢いに行く

列車が国境を越えた。もう朝鮮だから安心だ。

すると、ふと、逢ったことのない姉が住んでいる威鏡南道クムチョンにいってみようと思った。父が死ぬ前に教えてくれた住所を憶えていた。わたしは姉の家に行くことにした。列車を降り、タクシーに乗った。

姉の嫁ぎ先は山奥にあった。牛や豚や鶏を飼っている普通の農家で、あたりの田んぼには黄金色の稲穂が垂れ、山には栗が茶色の実をつけていた。

姉がいた。顔を合わせた瞬間、わたしたちは互いに、自分たちがまちがいなく姉妹だということを確認した。顔がそっくり同じで、背の高さだけは姉のほうが少しだけ低かった。わたしたちは抱き合って、大声をだして泣いた。初めて会ったのに、なぜかなつかしくてたまらず、こみあげてきたのだ。

「アイゴー、おまえがオクチュか、わたしの妹か」と姉はいった。十二歳ちがいの姉には、そのとき七歳の男の子と四歳の女の子がいた。姉は、父が死んだ報せを受けたときには、両親を亡くしたときに行う儀式どおり長い髪をときおろし、祭礼用の器に水を入れて北に向かって泣いた、と悲しい思い出を話してくれた。

滞在した二、三日のあいだ、近所の人たちが栗を入れた餅など山の珍しい食べ物を作ってつぎつぎと現れ、「よくきた、よくきた」と大歓迎してくれた。わたしが 姉に似ていると、みんながいった。わたしたちは毎晩、あれこれ話に花を咲かせた。
姉がもらわれてきたばかりのころの苦労話をしていると、義兄が「もうすんだこと なのだから、そんなことをいうなよ」と横から口を出した。この兄がいい人でよかったと思った。

これが、一生のうちで一度だけ会えた姉との思い出だ。姉は、生きていればもう八十歳を過ぎているはずだが、もう生きてはいまい。以北(朝鮮民主主義人民共和 国)でどんな生涯を送ったろう。幸せに生涯を送ってくれたものと思いたい。

姉と別れを惜しんだあと、こんどこそ大邱に向かった。

一年ぶりに戻ってきたわたしをみて、母はそれは喜んでくれた。娘の突然の失踪を悲しんで、ほんとうに病気になるほどだったのだ。兄からも弟からも、どこでなにをしていたのか問いただされたが、わたしはけっして本当のことはいわなかった。

満州にいって働いてきたとだけ告げた。

(P28~40)

出典:ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私 (教科書に書かれなかった戦争 Part22)/文玉珠(ムン・オクチュ) 梨の木社(1996)

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で、ここで最低限の説明をしておくと、文さんの記憶力の良さは言うまでもないのだが、本書で文さんが前川さんに、確信を持って語ったことでも、実はその後の調査や研究によって、勘違いであったり、思い込みであったりする例が、この聞き書き中にいくつか見られる。例えば、文さんが実家に5000円もの大金を、軍事郵便局から送金した、なんやコイツ、儲けとるやないけと言う話は、秦郁彦氏及びその拡声器諸氏によって、下品な尾ひれをつけて、大声で語られてきた。

よく、ネット右翼の方々のHPで、「文玉珠と言う売春婦はしこたま儲けた」とか、文字を大きくして赤字引用されたりする話であるが、彼女は軍事郵便の封筒に入れて郷里に送金している。本人は兄が使ってしまったと推測しているが、実際は朝鮮での換金は不可能である。ハイパーインフレによる為替差益の恩恵は、全く受けていない。また、文さんは、「強制売春」の対価はもらわなかったが、高級将校相手にしている時は、チップをよくもらったと書いているので、そうなのかなと最近まで思っていたのだが、ビルマのインフレを考慮すると、別段、貯金は高額ではない。高級将校相手に、妓生学校で習った芸を披露したにしては、ケチ臭い額しかもらっていないのが分かって、改めて呆れたくらいである。逃げられないと観念して、必死になって「慰安所」に適応しようとした文さんでこのザマなのだから、他の慰安婦女性の境遇は推して知るべしだろう。

ダイヤを買ったとか言う話も、本物のダイヤだったかどうかは疑わしい。満州で慰安婦が毛皮のコート着てたと言う話と同様で、そりゃヒートテックとかおまへんのやから、みんな毛皮着とるわちゅう話で、毛皮にも高いのから安いのまで、いろいろあるっちゅう話である。

なお、2015年の新版では、森川万智子氏の解説が大幅に追記されている。新版が出る前に韓国で見つかった、「ビルマ慰安所管理人の日記」の意義を淡々と解説している。私は、「ビルマの慰安所管理人の日記」中、マツモトの名を見た時の驚きを今でも覚えている。この資料は、言うまでもなく、今後、ジワジワと「否定派」の首を絞めていく決定的資料で、私が森川氏なら、「ざまをみやがれ秦郁彦」とか書くところなのだが、森川氏は人間ができているのだろう、この20年近く、被害者女性を貶めてきた中心人物に対する恨み事は一切、書かれていない。

読後、私はいたく感動して、さすがに目頭が熱くなった。旧版を所有している方も一読の価値ありである。

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簡潔だが、軍関係の街が網羅されているため、ここで地図を使用させて頂いた。出典は「雲ながれる国境/柳田昌夫 ミネルバ書房(1980)」である。右上の林口から虎頭までの鉄道路線を虎東線と言うが、東安から虎東までの間のどこかが文さんのいた慰安所の所在地と考えられる。


つかこうへい氏の「満州駅伝」と朴裕河氏
旧満州の慰安所の文玉珠さん
関東憲兵隊の部隊構成と業務内容