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河君子(河床淑)さんの証言(積慶里)3-1

かしこい人はみんな死んで、ぼんやり者ばかりが生き残った

河君子(ハ・クンジャ)

武漢でいちばん最初に会った洪江林ハルモニから、彼女と子どもたちが結婚して姻戚となり、義妹の間柄になる河君子ハルモニを紹介された。

私たちは二人のハルモニと一緒に武漢大学の招待所で一晩過ごした。河ハルモニは尹貞玉先生と同じ部屋でやすんだ翌朝、話をはじめた。

調査者たち全員が、二人のハルモニを真ん中にして、まるくなって座った。河さんの方がずっと積極的に答えるので、河さんが中心になった。しかし、何としても慰安婦のことを聞くのに、人数があまり多くてもよくないというので、チームを二つに分けて、ハルモ二一人ずつの責任をもって聞くことにした。
河ハルモニは、すらすらよく話をする方で、初め調査したのち、私たちがソウルに発つ前に晴川飯店でもう一度話を聞いた。

二度の調査は、集中的によくできたが、ハルモニは、他の「慰安婦」だったハルモニたちの家をたくさん知っていて、何度か、ハルモニの案内を受けて話を聞いた。

またハルモニは漢口積慶里慰安所にいたが、自分のいた家がどこだったかを記憶していて、その通りをたずねて、すぐその前で写真を撮ったたりした。診療所がどこだったか、お風呂屋がどこだっかも、詳しく覚えていた。

昔の嫌な記憶が思い出される積慶里を再訪することが、うれしいことではないであろうに、ハルモニは私たちが行きたがっているのに気づいて先頭に立って道案内をするほど積極的な性格だった。

大きくなったら、遠くへ行って金を稼いで来ようと

chugokuian私は一九二八年、忠清南道瑞山で生れた。その時の名前は河床淑(ハ・サンスク)だった。妹と弟が一人ずついた。母は飴を造り、父がそれを持って行って売った。

五歳の時に、家で「そらの天、土地の地」(「天地玄黄」で始まる漢文の千字文)を習ったけれど、口では言えるが、文字は分からなかった。

家で小学校にやってくれた。ところが、私は勉強がきらいで、本や帳面を包んで、家を出るけれど、それを木にくくりつけておいて、学校へ行かないで、新とりに行った。夕方には本の包みを持って家へ帰って、勉強してきたと言った。けれども、先生が家に来て、「お宅の娘さんはちっとも勉強しない」と言った。

朝鮮の靴を、妹は何カ月か履くけれども、私のは一月も履かないうちにぼろぼろになってしまった。妹は不器量で味噌玉みたいだといわれたけど、私はほんとうに可愛かった。私は勉強は死んでもやらないけれど、新とりや畑の草取りはよくやった。母親は、女の子が勉強もしないでたいへんなことだと心配した。「男の子だったら、いいけど、男の子じゃないし・・・・・・」。

母親が大きくなったら何をするのと聞くと、私は、「心配しないで。私は遠いところに行くわ。そして母さんが死んだって電報が来たら、金びつにお金をいっばい持ってきて、お母さんにお供えするからね」と返事したりした。妹は「野良仕事をして、お米を少し持って、お母さんに会いにくるわ」と答えた。母親は妹の答え通りだといい、私を悪い子だといった。

小学校三年になった九歳の時、父親が肺病で死んだ。父親が肺病を患っていた間、母親は旅館を経営していた。父が亡くなって、母親はお金がなかったので叔母に旅館を売った。その後、母親は他家の麻を紡ぎ、私は家で水汲みや新集めをしながら暮らした。叔母は家を売ったのになぜ出て行かないのだと私を殴ったりもした。母親は私たち三人も子どもを連れて、どうして暮らしいけただろうか。

その後いくらもたたないうちに、母親は私たち三人を連れて礼山にいるひとりものの男と再婚した。その家は汽車の駅に近かった。そこの住所は、礼山郡山城里だと覚えている。瑞山から礼山までは虎がいるという山を越えて歩かなければならなかった[瑞山と礼山の間に伽耶山がある]。

新しい父は梁といい、煙草工場を経営している人だったが、母親が瑞山で旅館をしていたとき、旅館の前にあった煙草会社の事務所に行き来しているうちに出会ったようだ。

瑞山の事務所は煙草の葉を売るところであり、山の工場はその煙草の葉でもって煙草を造る工場だった。再婚した母親は、弟をもう一人産んだ。

私は一二歳のとき、鎮南浦でよその家の子守。亡くなった父の友人が紹介してくれたのである。その家は店屋だったので、金持ち。女の子二人、男の子一人がいたが、私が女の子一人と男の子の守りをした。

一年だけという話だったので、一年のちに母が連れに来た。その家では、盆や正月などには服を作ってくれ、食べさせてはくれたが、給金はもらえなかった。

礼山に帰ってきて、家の近所にある赤い土で陶磁器を造る工場に通った。その工場は大きくはなくて、働く人も五、六人しかいなかった。給金ももらえず、仕事を覚えたら金を払うといわれた。三、四カ月働いた。

金を稼ごうと満州へ

ある日、お隣のお姉さんのところへ遊びに行くと、きれいな服を着て、お化粧をしていた。私が、どこでお金を稼いだのと聞くと、日本の工場へ行ってきたと言った。日本へまた行くのと聞いたら、今度は中国の上海に行くのだという。

お姉さんが私を見て、「一緒に行かない?」と言い、私は「行くのだったら、だれが連れていってくれるの」とたずねた。そうすると、そのお姉さんは、あなたが行きたいのなら、自分が話してあげるから、そうしなさいと言った。

それからしばらくたって、朝鮮人の男二人が家に訪ねて来た。河床淑はお前だねと聞いて、日本に行っていたお姉さんの名を出して、知っているかとたずねた。そのお姉さんの姓は朴さんだったと覚えている。知っていると言うと、私に、「お前は日本に行くか、中国に行くか」と聞くので、中国へ行くと言った。数日後に、また来て、行くんだねと聞くので、行くと言った。母親は、そんなに遠くへ行ってはいけないと言った。「満州は鎮南浦と違う、ほんとに遠い。鎮南浦は朝鮮の土地だから、私がたずねて行くこともできるけれど、中国は本当に遠いから、どうやって行けるだろう?」といって引き止めた。

私は、それでも行くと泣いた。そうすると母親は、そこへ行っても、クスリ(阿片)を飲んでいけてもいけないと言った。そして、行ったらすぐに手紙で連絡するようにと頼んだ。

新しい父親はまったく関係なかった。私はもう大きくなっていたので、お父さんともよばなかった。

家を出る時、私は数えの一七歳だった[一九四四年]。その時、妹は一五歳で、蚕から糸をとる工場で仕事をしていた。弟が一二歳だった。

家を出たのは、五月の端午の節句の頃、陽暦では六月頃だった。友だちがノルテギ(板の両端で跳ねる遊び)をしようといってきた。私が家を出掛ける時、母親が、卵一〇個を茹でて藁に包んでくれ、汽車の中でお食べといった。そのとき私は髪を長くしていた。

朝鮮人の男二人が、私一人を連れて汽車で京城(現在のソウル)まで行った。

京城に来て、奨忠壇の近くの旅館に行った。私をそこまで連れて来た朝鮮人の男二人はそこから帰って行った。旅館には、主人夫婦と先に来た女五人がいた。その女たちは、私よりも年上に見えた。そこで見ると、女たちを三人とか、一人とか連れて来る人がたくさんいた。後には女たちが全部で四〇人余りになった。その中にはキーセンや俳優もおり、日本に行って来た人たちもいた。

忠清道から来たのは、私一人であり、慶尚道から来た人がいちばん多かった。私が、「お姉さん、どこへ行くの、どこの工場なの?」と聞いてみると、お姉さんたちは「工場へ行くんではないのよ。ネンネなのね。そこへ行ったら、兵隊を見送る声をあげるし、歌も歌う」といい、慰問団だと言った。

私はその時、慰問団は悪くはないし、工場よりいいなと思った。その頃は、遊ぶことがどれほどよかったか。その旅館に一月ぐらいいた。京城に来て主人夫婦が私の名前を聞くので、河床淑だというと、日本人の名がそれではおかしいといって、「君子」とつけた。

京城から乗った汽車の中には、軍人たちもいた。京城を発った汽車は、平壌、丹東、天津を経て南京まで行った。丹東を通ったのは汽車で放送があったので覚えている。天津で汽車を乗り換えるため、一晩泊まった。南京には半月ぐらいいて、船に乗り、安徽省の燕湖を経て武漢に入った。燕湖にも半月ほどいた。船に乗った民間人は朝鮮人はかりだった。そのころは「お母さん、お母さん、この子を産んでお国にささげます(訳注1)」という唱歌も歌った。船の中で、空襲があったら、布団をかぶって、身体を船に結わえつけるようにと言われた。私は、死んでもこのまま寝ていようというと、お姉さんたちが私にまだ幼くて、何にも知らないようだといった。お姉さんたちは、私が若くてかわいそうだとやさしくしてくれた。

(訳注1)朝鮮でレコードに作られた「志願兵の母」(「御国に捧げんと育てし子・・・・・・」作・朴郷民)と思われる。

出典:中国に連行された朝鮮人慰安婦たち(1993) 三一書房 (P63~P89)

河君子(河床淑)さんの証言(積慶里) 3-1
河君子(河床淑)さんの証言(積慶里) 3-2
河君子(河床淑)さんの証言(積慶里) 3-3


文献倉庫 「模範慰安所」積慶里】
関連記事:文献倉庫追加 「模範慰安所」積慶里

①武漢兵站/山田清吉(1978)
②漢口慰安所/長沢健一(1983)
③どのようにして慰安婦を集めたか/千田夏光(1973)
④玉の井挽歌/大林清(1983)

⑤私が見た従軍慰安婦の「正体」/小野田寛郎(2005)
⑥慰安所業者の聞き取りから/石橋菜穂子(2015)
⑦手記 慰安所はこうして出来た/S・G(匿名希望)
⑧強制連行したのは朝鮮・中国人業者/住田朝吉
⑨河君子(河床淑)さんの証言(積慶里)
➉大量設置の時代へ/吉見義明(「従軍慰安婦」岩波書店)より(1995)

積慶里慰安所関係図版